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伊藤野æž
伊藤野枝(いとう のえ、1895年1月21日 - 1923年9月16日)は、日本の婦人解放運動家、アナキスト(無政府主義者)、作家。戸籍名は、伊藤ノヱ。
雑誌『青鞜』で活躍。わがままと言われる反面、現代的自我の精神を50年以上先取りした。不倫を堂々と行ない、結婚制度を否定する論文を書き、戸籍上の夫である辻潤を捨てて大杉栄の妻、愛人と四角関係を演じた。人工妊娠中絶(堕胎)、売買春(廃娼)、貞操など、今日でも問題となっている課題に取り組み、多くの評論、小説や翻訳を発表した。
成長期[edit]
福岡県の玄界灘に面した今宿海岸、糸島郡今宿村(現・福岡市西区今宿)に生まれた。7人兄妹の三番目で長女。父・亀吉は1866年生まれ、母ムメは1867年生まれ。かつて伊藤家は「萬屋」(よろずや)という海産物問屋だったが、野枝が生まれる頃には没落していた。父は中年以降、鬼瓦(おにがわら)を彫る瓦職人になったが放蕩者で気位が高くろくに仕事をしないため、母が塩田の日雇いや農家の手伝いなどをして暮しを立てた。小学校2年生のとき口減らしのために一時叔母・マツの家に預けられた。母・ムメは、後に成人した野枝に「私は自分の子を他人にやったりは絶対にせんよ」と言われたことを後悔していると晩年に述懐したという。
周船寺高等小学校を卒業(1909年)して約9ヵ月間、家計を助けるため地元の郵便局に勤務しながら雑誌に詩や短歌を投稿。この年の夏に叔母(母の妹・代キチ)一家が東京から帰省した際に東京の空気に触れる。東京への憧れがつのり、三日にあげず叔父・代準介に懇願の手紙(「ひとかどの人物となり恩返しをする」など)を送った。その熱意に負け、叔母一家は暮れに野枝を東京に迎えた。
上京の翌年、猛勉強のすえ上野高等女学校(上野高女、現・上野学園)に1年飛び級で4年編入試験に合格。作文に抜群の成績をあげる。在学中、英語教師の辻潤と知りあう。1912年に上野高女を卒業。帰郷すると親の決めた相手と婚約が決まっていた。前年の夏、隣村の末松家と野枝本人に相談もなく仮祝言まですんでいたのである。しぶしぶ末松家に入って8日目に出奔、再び上京した。在学中に思いを寄せていた辻潤と同棲。1912年4月末、非難を浴びた辻は、あっさり教師の職を捨てて結婚生活に入った。
青鞜社[edit]
10月頃から野枝は平塚らいてうらの女性文学集団青鞜社に通い始め、社内外から集まった当時の錚々たる「新しい女」達、与謝野晶子・長谷川時雨・国木田治子・小金井喜美子・岡本かの子・尾竹紅吉・神近市子らと親交を深めて強い刺激を受けた。機関誌『青鞜』に詩「東の渚」などの作品を次々発表、頭角を現した。平塚らいてうが「原始、女性は実に太陽であつた」と謳ったのと対照的に、野枝は「吹けよ、あれよ、風よ、嵐よ」と謳っている。この時期、米国のアナキスト、エマ・ゴールドマンの『婦人解放の悲劇』の翻訳をし、足尾鉱毒事件に関心を深めた。
1915年に雑誌『青鞜』の編集・発行を受けつぐと「無主義、無規則、無方針」をモットーにエリート女性だけでなく一般女性にも誌面を解放。情熱的に創作・評論・編集に活躍し、『青鞜』を文芸雑誌から女性評論誌、あるいは女性論争誌と呼ぶべきものに変えていった。この間、長男の一(まこと)、次男の流二(りゅうじ)を出産。また中流階級婦人による廃娼運動を、娼婦の境遇に対して理解なきまま「醜業婦」の名を浴びせる偽善として厳しく批判した。
大杉栄[edit]
1916年4月、辻潤と離別。家族と仕事を捨て、翌月からアナキズム運動の中心人物であった大杉栄と文通を開始。秋に同棲。大杉には内妻の堀保子(堺利彦の死別した最初の妻:美知の妹)のほかに東京日々新聞(東京日日新聞)記者・神近市子という愛人もおり、苦し紛れの「自由恋愛論」は批判の対象となっていた。ここに野枝が参入して四角関係になり、神近が11月に葉山の日蔭茶屋という旅館の一室で大杉を刺し、瀕死の重傷を負わせるに至る、いわゆる「日蔭茶屋事件」が起こった。神近は大杉に経済的援助を与えていたため生活は困窮。この件もあり『青鞜』は廃刊した。
翌年、大杉は内妻の保子と離別、神近は大杉に対する殺人未遂罪で入獄。「多角恋愛」で勝利した野枝は、9月に長女を出産、周囲からの「悪魔」呼ばわりを逆手に取って魔子と命名した(のち真子に改名)。貧乏のうえ、官憲に追われ監視される生活ながら大杉との生活は充実し、1918年に『文明批評』、翌年に『労働運動』を二人で創刊。『クロポトキン研究』『貧乏の名誉』『二人の革命家』など共著も多い。やがて次女・エマ(のち幸子に改名)、三女・エマ(のち笑子に改名)、四女・ルイズ(のち留意子、さらにのち本人はルイと名乗る)、長男・ネストルの5人が生まれた。その間に『婦人労働者の覚醒』を執筆。二人目の子を生んだ直後には『解放』1920年4月号で、結婚制度を否定する『自由母権の方へ』を発表、戦後ウーマンリブの結婚制度否定を50年早く提起した。1921年の普通選挙を前に結成された社会主義の婦人団体赤瀾会に山川菊栄らと参加。
1923年9月1日の関東大震災から間もない16日、大杉栄、大杉の甥・橘宗一とともに憲兵大尉・甘粕正彦に連れ去られ、その日のうちに憲兵 (日本軍)構内で扼殺されて死亡(甘粕事件)。遺体は、畳表で巻かれ、古井戸に投げ捨てられた。享年28。
53年後に発見された死因鑑定書によれば、野枝、大杉、共に肋骨が何本も折れており、胸部の損傷から激しい暴行を加えられていたことが発覚。軍法会議法廷で甘粕ら被告人は、被害者が「苦しまずに死んだ」と陳述していた。その後の研究によれば、虐殺の命令を出したのは甘粕ではなく、憲兵隊上層部(憲兵司令官・小泉六一)ないし陸軍上層部(戒厳司令官・福田雅太郎大将)であったと推認された。甘粕事件の発覚は、殺された大杉の甥・橘宗一が米国籍を持っていたため、米国大使館の抗議を受けて狼狽した政府(第2次山本内閣)の閣議(19日)で大問題になったからであった。
墓は郷里の福岡市早良区内野二丁目の西光寺と、静岡市葵区沓谷一丁目の沓谷霊園の2ヶ所にある。静岡にある墓は、「自由恋愛の神様」と聞いて参拝する女学生が多い。また、1975年9月16日、名古屋の覚王山日泰寺で橘宗一少年の墓前祭が開かれて以来、毎年9月15日は名古屋で橘宗一の墓前祭が、翌16日は静岡で大杉栄・伊藤野枝の墓前祭が開かれることになっていたが、遺族らも高齢化し、2003年9月16日の80回忌が最後の墓前祭となった。墓前祭には三女の野沢笑子(82歳)、四女の伊藤ルイの遺児で王丸容典(59歳)ら200名が参列した。