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ミハイル・バクーニン

ミハイル・アレクサンドロヴィッチ・バクーニン(Михаил Александрович Бакунин ,Mikhail Aleksandrovich Bakunin,1814年5月30日1876年7月1日)は、ロシアの思想家・革命家・無政府主義の創始者の一人。


その生涯

トヴェーリ県の貴族の家に生れ、初めペテルブルグの砲兵学校に学び,将校として軍務に就いたが、父の反対を押して退官(1838年)、モスクワに出てベリンスキーゲルツェンと交わり、主にドイツ・ロマン派フィヒテヘーゲルの哲学を研究した(1835年-1840年)。後のスラブ派コンスタンティン・アクサーコフに送られてベルリン大学に留学し、シェリングの講義の聴講者としてマルクスハイネキェルケゴールと共にバクーニンの名前がある。ドイツ,スイス,フランス等に滞在し、青年ヘーゲル派ルーゲエドガー・バウアー、義人同盟のヴァイトリング、さらにプルードンマルクス等と交わる。ヴァイトリングの影響下にあった頃は「共産主義者」を自称していた。1848年のフランス二月革命期には全スラヴ民族の合同共和国の樹立を目ざして活動、ドイツ三月革命にはドレスデンで音楽家のヴァーグナーと共に活動し(ヴァーグナーの『ニーベルングの指環』に登場する英雄ジークフリートはバクーニンがモデルだったとも言われている)、武装蜂起を指導するが敗れ、1849年にザクセン政府に逮捕され、1851年ロシアに護送され、シュリッセルブルクの要塞に投獄される。死刑を免れて従兄弟が総督でもあるシベリアに流刑される(1857年)が、流刑地から脱走(1861年)し、生麦事件の頃の日本横浜から太平洋を越えてアメリカへ渡り、大西洋を越えてイギリスに到達し、ロンドンのゲルツェンと合流し、革命運動に復帰した。さっそく1863~64年のポーランド蜂起に関与したが、失敗に終わり、民族主義を基盤とする革命に疑念を抱くとともに、自身の革命組織の必要性を痛感するようになった。また自身の革命思想を自覚的に理論化し始めた。1864年第一インターナショナルに参加し、多数派を形成し、マルクス派と戦ったが、事務局を握るマルクスにより謀略的に除名されるが(1872年)、マルクス派を排除した多数派としてのインターナショナルの継続を行う。1872年から1877年に「ジュラ連合」を組織して無政府主義者の合同を計り、同時にロシア国内の革命分子と連絡をとり、その指導にあたった。スイスのベルンで没する。

著作と思想、影響

「革命の代数学」としてのヘーゲル哲学の受容、「私有財産への攻撃」というプルードンの教義を取り入れたことにより、バクーニンは革命家になったといわれる。ゲルツェンとともに農村共同体の重要性を強調したことは、後のナロードニキを思わせる。スラブ民族解放はロシア人の手によっておこなわれるという予想は、汎スラブ主義の変形である。その精力と不羈の精神は同時代人に深い感銘を与え、スイスの時計職人やイタリアの学生への無政府主義の浸透は、バクーニンの功績としてよい。

バクーニンの著作は多くはないが、完成されたものはさらに少ない。1842年10月『ドイツ年誌』に掲載された論文「ドイツにおける反動、一フランス人の覚え書きより」は、ヘーゲル左派的流行のうちで最も優れた論文の一つとなり、”破壊を求める情熱はまた創造する情熱なのだ”という結びの句で知られる。バクーニンは亡命者であったため、ロシア本国における彼の思想の同時代的インパクトは大きかったとはいえない。しかし、存命中、ロシアに持ち込まれた唯一の著作『国家制度とアナーキーTemplate:lang)』、あるいは死後出版された彼の主著『神と国家 Dieu et l'Etat,1882年』は、ナロードニキの思想の形成に大きな影響を与えたとされる。バクーニンは人間の自由が神と国家との否定によって達せられると考え、〈自由な共同体の自由な連合〉の原則を提唱し、そのためには暴力手段によって国家権力を倒し、一切の国家と政治機構を破壊することが必要であると主張した。国家へのバクーニンの嫌悪は、善き社会を建設しうる人間性への信頼と表裏一体である。バクーニンの政治思想上の最大の功績の一つは、マルクスの主張するプロレタリア独裁とは、実態は少数者による独裁にすぎないと徹底的に批判したことといわれる。そして「いかなる独裁も、自己の永続化以外になんらの目的を持ち得ない」とあらゆる独裁を当時は批判している。しかし、バクーニンにもプロレタリア独裁のような過渡的な独裁論とでもいえるものがあり、バクーニンは仲間に充てた手紙の中で「見えざる独裁」「不可視の独裁」という言い方をしている。マルクスに対しては「エンゲルスと共に第一インター・ナショナルに最大の貢献をした」ことを認めており、プルードンと比較して「思想家としてはいい道にあった」とし、「原則を確定してそれをその全経済学説の基礎とした名誉は彼の上に帰せられなければならない」とした。後には「あれはやっぱりマルクスの方が正しかった」「マルクスは今でもそうだが、当時僕よりよほど進んでいた。よほどどころではない。僕とは較べものならないほど学者だったのだ。僕は経済学をちっとも知らなかった」とも書いている。

1920年代、ロシア革命直後の、まだ革命機運の残るソ連では一時伝説的革命家として評価されたが、ソ連が党主導の共産主義体制になるにつれて、バクーニンは、プロレタリア独裁の批判においてマルクスの最大の敵とされ、敵視されるようなった。

行動面から見ると彼は1848年二月革命以来ヨーロッパの至る所で蜂起を企て、失敗に終わっている。バクーニンは楽観的で、少しでも革命の芽生えが見えたときには、行動を優先し、理論はその事態の推移に従属させた。

関連

文献

  • アナキズム叢書。三一書房。1巻、2巻がバクーニン。
  • バクーニン著作集。全6巻 白水社
  • 大沢正道『バクーニンの生涯』カーの訳者でもある。
  • E・H・カー『バクーニン』現代思潮社。人物伝。思想的な考察はほとんどない。
  • ピルーモヴァ『バクーニン』三一書房。旧ソ連の公認バクーニン伝。ロシア問題ではバクーニンを評価。
  • 千坂恭二「総破壊の使徒 バクーニン」『情況』1973年9月号、12月号、1974年4月号。「不可視の独裁」を考察。
  • 勝田吉太郎著作集4巻 『アナーキスト・バクーニン』ミネルヴァ書房 解説は五木寛之がした。